2018年11月18日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『聖霊を痛ませた民』(イザヤ63:1~14節)
 旧約聖書の中にも聖霊に関する事柄が記されている箇所があります。今朝のイザヤ書63章もその一つです。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。」イスラエルの民がエジプトで奴隷として酷使され耐えられない苦役の中で父祖の神に助けを求めたとき、神はモーセを通してエジプトを脱出させます。
 神の助けがなければ到底成し得なかった奇跡です。彼らは目の前で起こる数々の超自然的な奇跡を自分の目で見たのです。極めつけは紅海の奇跡です。二つに分かれた海の底を歩いて対岸に渡り終えました。エジプトの軍隊も彼らの後を追って来ましたが押し寄せる水に呑み込まれました。これほどの奇跡を見たにも拘わらず、問題が起こると公然と不平を言いその矛先をモーセに向けます。聖なる御霊を痛ませたとはこう言うことです。分かり易く言うと、「お母さんをいじめて困らせたのでお父さんが出てきて彼を懲らしめた」いうようなものです。エペソ4:30節に次のようなみことばがあります。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」また、マルコ3:28節「また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」

2018年11月11日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『今日、この預言が・・』(イザヤ61:1~11節)
 今朝のイザヤの預言は、ルカ福音書4:17~21節「すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。』・・・」この預言が「今、成就した」と主は言われます。このことはイエスさま自身がメシヤ宣言をされたと言うことです。まさにイスラエルの民が待ちわびたメシヤの登場であり歴史的大事件です。人々は罪の赦し、いやし、解放を受けるのです。
 ヘブル2:14~15節「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」イエスさまが来なければ私たちは未だに奴隷状態で自分の罪の中でもがき苦しまなければならなかったのですが、使徒13:39節「モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」これは事実です。この奴隷の状態から主は私たちを自由にしてくださるのです。カラテヤ5:2節「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」主に感謝しましょう。

2018年11月04日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『讃美と祈りの家』(イザヤ56:1~8節)
 主がエルサレム神殿に足を踏み入れた瞬間、何かに取り憑かれたかのように宮の中にいた商売人たちを追い出し始めます。「それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21:12~13)この「祈りの家」はイザヤ書56:7節からの引用です。また、「強盗の巣」ということばはエレミヤ7:11節「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。」からの引用です。
 エルサレム神殿はAD70年、ローマ軍によって徹底的に破壊されイスラエルの民(ユダヤ人)は母国を失い亡国の民として世界を彷徨うことになります。ユダヤ人にとって神殿を失うことは想像を絶する痛みです。自分の罪を贖うためのいけにえを捧げる場所を失ってしまったのです。いけにえを捧げる場所は一つしかないのです。申命記12:13~14節に「全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。」とあるからです。しかし、キリスト者にとって神殿がなくても困ることは何一つありません。その人自身が神殿となっているからです。裏を返せば汚れから遠ざかる責任が伴うのです。今イエスさまが神殿である私たちを訪れて下さったら強盗の巣だと激怒しないでしょうか?

2018年10月21日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『神は我が避け所、わが力』(詩篇46:1~3節)
 「彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。」(詩18:1~3)私たちは無意識のうちに自分の能力、努力で何でも成し遂げようとします。いやそう考えることが常識であって、そうしない者は怠け者と見なされることさえ起こります。しかし、ダビデはそのような考えを真っ向から否定します。ダビデにとって主は自分の全てであり、自分の存在はすべて神に依ることを告白してはばからないのです。
 パウロもローマ9:16節に「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」と告白します。
 また、エペソ2:8~10節「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」とある通り、このことは旧・新約聖書の根底に流れている真理です。ですからキリスト者は主に委ねることは当然の姿です。しかし、現状はかなり事情が違うように見えます。委ねますと告白しながら恐れ、不安、思い煩いに支配されています。しかもそのことに矛盾を感じていない人も多いのです。委ねるとは問題を神の手に渡すことです。

2018年10月07日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『神の前に富む』(詩篇1:1~6節)
 このみことばと同じような箇所がヨシュア記1:8節にあります。「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」また申命記6:6~8節「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。」これは単に暗唱聖句の概念に留まらず霊的解放、神の栄光、御霊の実を結ぶことなどあらゆる恵みをもたらします。
 昼も夜もただみことばを繰り返すのは単純で賢明とは思えないかも知れませんが事実はそうではありません。大事なことはこれを継続して途中で止めたりしないことです。その結果自分でも想像できなかった平安と喜びが心の内面から溢れ出てくることに気づくようになるでしょう。継続することによって少しづつ自分の考えが変えられていきます。それによって神との交わりも緊密になります。詩篇119:103節「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」また、エレミヤ15:16節「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」 これは主が私たちに最も望んでいることなのです。皆さまの祝福をお祈りします。

2018年9月30日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『彼の力は去った』(士師記16:18~31節)
 サムソンはまた、ソレクの谷にいたペリシテ人の女性デリラを愛するようになります。それを知ったペリシテ人の領主たちは莫大な報酬を約束してサムソンの力の源を聞き出すようデリラを口説き成功します。デリラは若くて美人であったかも知れませんが、自分の夫(?)をお金で売り渡すような女性と一緒に暮らすサムソンの考えも理解に苦しみます。14章のペリシテ人女性との件は主のご計画であったと4節に記されているのでなんとか理解できます。「彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。」(14:4節)しかし、デリラとの成り行きは神の計画であったかどうかはわかりません。
 4節の後半に「主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。」とあるので今回のデリラとのことも主の導きと考えられないことはありませんが、淫乱と好色のうちに異国の女性と戯れるサムソンは、神との交わりを疎かにしナジル人としての自覚も忘れてしまい、執拗にせがむデリラの要求に屈し自分の力の源を明かてしまったサムソンに落ち度がなかったと考えて良いのでしょうか。
 堕落した生活を送っているうちに主の臨在が自分から去っていることにも気付かないサムソンの失敗は私たちに対する警告のように感じられてなりません。私たちはむしろさらに神の力に満たされるために勤勉でなければなりません。祈ること、聖書を読むこと、昼も夜もみこたばを口ずさむことを怠ってはなりません。また、主が嫌っておられる悪習寛からも決別しなければなりません。

2018年9月16日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『ナジル人サムソン』(士師記13:1~5節)
 神はイスラエルをペリシテ人から救うために一人の人を世に遣わそうとしています。その子どもの両親として選ばれたのがダンの氏族でマノアとその妻です。マノアの妻は不妊の女で子どもを産んだことがなく、おそらく子どもが与えられることを諦めていたのかも知れません。そのようなことを考えるとロ-マ書9:16節「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」とのみことばは頷けます。
 ナジル人とは、「聖別された者」の意味で特別な使命を果たすために神によって特別に選ばれた器で、それ故いろいろな誓願の規定が定められたいたわけです。そして彼の妻にも一時的にナジル人の誓願を守ることを求められます。「今、気をつけなさい。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。」そして彼女は預言されたように男の子を産みます。その子がサムソンです。そして生まれる男の子の守るべき誓願は「見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。」(13:5節)どんな理由であれ髪の毛を生涯切ってはならないというものです。厳しい掟は聖別された者の宿命です。
 イスラエル人も民族として守らなければならない誓願が多くありました。厳しい食物規定、土地に関する規定、守らなければならない祭りの規定、神殿に捧げるいけにえに関する規定などなど。それは彼らは救世主を世に送り出す特別な使命の故です。

2018年9月09日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『娘の信仰』(士師記11:29~40節)
 いよいよアモン人との戦いは避けられない状況で敗北は許されません。戦いに先立ってエフタは神に誓願を立てます。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」(士師記11:30~31)というものです。エフタはどのような思いで自分の家に近づいたのでしょう。そして最初に出迎えたのは勝利を喜ぶエフタの一人娘です。その時エフタの心は天国から地獄に突き落とされます。
 それ以上に私たちの心を揺さぶるのはエフタの娘のけなげな信仰です。事の真相を知らされたエフタの娘は迷うことなく次のように言います。「すると、娘は父に言った。『お父さま。あなたは主に対して口を開かれたのです。お口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アモン人に復讐なさったのですから。』・・」(同11:36節)これはアブラハムが一人子イサクをモリヤの山でいけにえとしてささげたときの信仰と同じものです。イスラエルをアモン人から救うために神がエフタを選ばれた理由の一つにこの誠実性と忠実性があります。民数記30:2節に「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」エフタの信仰は行いを伴ったものであり、娘の信仰も父の信仰に勝っても劣りません。しかし、主はマタイ5:34節で「決して誓ってはいけません。」と言われたのは何故?

2018年8月19日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『主の道を行く』(創世記24:1~27節)
 「主のみこころ」とか「神の計画」とかキリスト者がよく使うことばですが、それを日々の生活の中に適用するとなると、いささか戸惑いを覚えるのも誰しも経験することです。神のみこころを知ることを難しくしているものがあります。それは「肉の思い」です。ローマ書8:5~7節「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」このように私たちの体の中に相反する二人の人物が同居しているようなものです。同じようなことはガラテヤ書5:17~18節にもあります。「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」また、Ⅰヨハネ2:15節「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」
 以上のことからわかることは、私たちは生まれながらにして罪深い性質をもっていると言うのです。キリスト者でなくとも素晴らしい考えと行動を伴った人はいます。それでも永遠のいのちを持っているわけではなく、神の呪いの対象であることに変わりはないのです。しかし、救われた方がすぐみこころの通りに歩めるわけではありません。みこころの通りに歩むためには聖霊に満たされる必要があるのです。

2018年7月22日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『塩の柱』(創世記19:15~29)
 アブラハムは何度も何度も神に食い下がり、50人から始まって10人正しい人がその町に見出されたらさばきを思い直すとの約束を取り付けます。ロトの家族だけでも10人位は必ずいるはずとの確信はあったと思いますが思惑ははずれました。「そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。『立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。』しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。」神の警告を無視した結果ソドムとゴモラの運命は最悪なものとなりました。二人の御使いはロト夫婦と二人の娘を助けるため町から逃れさせようとし、守るべき忠告を与えます。その内容は「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」(19:17節)
 彼らはツォアル目指してひたすら歩を進めますが、突然ロトの妻が振り返り、その瞬間塩の柱になってしまいます。きっとソドムに残してきたものに未練を感じたのでしょう。この出来事は私たちにとっても他人事ではありません。そもそも私たちは裸でこの世に生まれてきたわけです。しかも死ぬ時何一つ携えて出ることもできません。私たちはこの地上が永住の地だと勘違いしてはならいのです。「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」(Ⅰペテロ2:11節)また、「信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル11:13節)。

2018年7月15日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『破れ口に立つ』(創世記18:20~33)
 ソドムとゴモラの罪は神が見過ごしできない状態にまで達し、事実かどうかを見極めるために三人の御使いが降ってきます。その内一人はイエスさまと思われます。二人の御使いはアブラハムを離れてソドムの町へ向かっています。18:22~23節「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。アブラハムは近づいて申し上げた。『あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。』・・」、
 アブラハムにとってソドムとゴモラが滅ぼされないためにいのちをかけた戦いが始まります。ソドムに甥のロト家族がいることも脳裏にあったでしょう。彼はまず、「ソドムに五十人の正しい人がいても神の計画は変わらないのですか?」と迫ります。それに対して神の答えは、「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」というものです。アブラハムは幾度も食い下がり「では、十人いたら?」と図々しいと思えるほどに神に迫ります。そしてついに「滅ぼすまい。その十人のために。」との神の約束を取り付けたのです。アブラハムの頭にはある意味安心感があったでしょう。しかし、後日アブラハムは悲惨な現実を目の当たりにします。わずか十人の正しい人がいなかった悲惨な現実を目の当たりにします。このような信仰の行為はモーセにも見られます。出エジプト32:31~32節です。また、パウロもそうです。ローマ書9:3節に彼の信仰がにじみでています。極めつけは十字架上のイエスさまの叫びです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34節)

2018年7月01日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『行いを伴う信仰』(創世記12:1~9節)
 いよいよアブラムの登場です。舞台はウルの地とあるので現在のイラク地方と考えられます。まず、アブラム一族は父テラも一緒にハランまで来そこに長らく滞在し、父テラはハランで死んだとあります。そしてアブラムが75歳になったとき神のことばがアブラムに下ります。「その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。・・」(創12:1)アブラムはこの時点で創造主なる神の声を聴くようになっています。偶像崇拝に満ちていた地でアブラムはどのように創造主なる神を信じるようになったかは聖書は詳しく記していません。
 いずれにしてもアブラムはこの時点ですでに唯一絶対なる神に対する明確は信仰を持っています。当時は神に示された地がどういう所か全く予備知識などありません。ただ神の導きだけをたよりに旅立っています。ここにも卓越したアブラムの信仰の一端を伺い知ることができます。ヘブル書の著者はこのことを次のように記しています。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」(ヘブル11:8)これは神との絶対的な信頼関係がなければできるものではありません。ヤコブ書2:23~24節「そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」私たちの信仰もかくありたいものです。

2018年6月10日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『掛けられたおおい』(Ⅱコリント4:1~7節)
 割礼ということばが聖書の中に登場するのは創世記17章10節です。そして同13節「あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。」それ以後、選民イスラエルとしてのしるしと誇りは割礼に象徴されると言っても過言ではありません。割礼を受けていない者はイスラエル人として認められなかったのです。しかし、旧約時代のイスラエルの人たちは割礼の真の意味を理解していなかったと思われます。
 パウロがこの割礼の意味を啓示されたとき、愕然としたことでしょう。ローマ2:28~29節「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」
 私たちもまた例外ではなく、生まれながらにして心にはおおいが掛かっているというのです。その心のおおいを取り除くことを象徴的に表したものが割礼という儀式です。この世の神(サタン)は人々におおいをかけ霊的盲目状態にしイエス・キリストが神であることを信じないよう惑わしているのです。霊的盲目であるかないかは、イエス・キリストが誰であるか知っているかそうでないかでわかります。主が語られたことばが真理であると確信し、それに従って行動している人はおおいが取り除かれているのです。私たちは大胆に確信をもって「主こそキリスト」と宣言しましょう。

2018年6月03日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『キリストの香り』(Ⅱコリント2:14~3:6節)
 マタイ5章16節に次のようなみことばがあります。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」このみことばは曲解するととんでもない悪影響をもたらします。見せる信仰を演じてしまう危険性があることを十分気注意しなけなければなりません。「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」(Ⅱコリント3:6)このみことばにあるように私たちは古い契約と新しい契約の違いを明確に理解していなければなりません。パウロはこの違いを身をもって体験したのです。石の板に書かれた律法をいのちがけで守ろうとした努力の人です。律法は命がけで守ろうとすればするほど救いから遠ざかることを彼は知らなかったのです。律法に欠陥があるということではありません。律法は永遠にして完全で正しいものです。
 では正しいはずの律法がどうして人間に死をもたらすのでしょうか?それは、人間の義が神の義に対して不完全なものだからです。完璧にみえる人間の素晴らしい業も神の目には全く汚れていることに気付いていないのです。Ⅱコリント3:3節「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」この中に「心の板に書く」とありますが、信じる私たち一人一人の心の中に聖霊さま御自身が入って来られ全く新しい人に造り変えられると言う意味です。そのような人は内側からキリストのかおりが放つようになります。

2018年5月20日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》     『異言より預言の賜物を』(Ⅰコリント14:1~19節)
 どういう訳か教会では預言とか異言について公に語ることが少なくなったように感じます。むしろ触れてはいけない事柄のような扱いになっているとさえ思われてなりません。悪霊追い出しについても聖霊のバプテスマについてもそうです。このような流れはみこころではありません。なぜなら聖書がそのよう言ってないからです。そのようなことを積極的に証しする人たちを異端であるかのように扱いさえするのです。このようなことはキリスト教界にとって決して良い傾向とは言えません。
 日本のキリスト教会が低迷している原因の一つにこの聖霊さまの働きに対する未熟な考えがあると言わざるを得ません。
 しかし、聖霊さまの働きを積極的かつ熱心に求める方々の中にも問題がないわけではありません。これは一つの例ですが、そのような教会では異言を語ることが聖霊に満たされ成熟したクリスチャンであるかのように見なす傾向があり、そのため異言の集会を積極的に実施し、信者になった方々は一日も早く異言を語れるようにとそのような集会に熱心に出席します。
 確かに聖書には聖霊に満たされた人々が異言を語りだしたと記されていますが、異言をかたれるようになれば霊的クリスチャンだとは言ってないのです。異言を語れるようになった人は語れない人を見下げるようになることさえ起こります。語れない人はそのことを聞かれることが怖いのです。語れない自分は一人前でないのだと自分を責め、まわりからそのように見られることに対する劣等感に悩みます。このような状態はもは本来の教会の姿とは言えないのです。十分警戒する必要があります。

2018年5月13日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》     『愛によって働く信仰』(Ⅰコリント13:1~10節)
 Ⅰコリント13章は愛について知る上でとても重要な箇所です。どんなに大きな奇跡を行っても、末期の病人を数多くいやしても、それが愛に基づいていないなら何の意味もないというのです。さらにパウロは「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Ⅰコリント13:3節)と衝撃的なことばを続けます。私たちは愛があるからこそ自分の持ち物を貧しい人々に施しができるのではないかと考えます。また、愛がなければ自分の体を焼かれるために差し出しはしないだろうと思いがちです。しかし、世の中には愛がなくてもそのようなことができることを知る必要があります。三島由紀夫の割腹自殺は愛から出たことなのか考える必要があります。太平洋戦争で帰りの燃料を積まず飛び立った特攻隊員は愛国心はあったと思いますが、聖書の言う愛が動機だったとは思えません。中東で起こる自爆テロも同じです。だからこそ私たちはここで愛について真剣に考える必要があると思っています。
 ガラテヤ書5:6節に「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」聖書の言う愛は私たちの想像を超えたものです。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13節)また、Ⅱヨハネの手紙6節「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、・・」主が私たちに願っていることは、このアガペーの愛は私たちが生まれてこのかた誰も持ち得ていないということです。これは上から聖霊さまによって与えられるものだと知る必要があります。

2018年4月15日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》     『あなたこそ真の教会』(Ⅰコリント3:10~17節)
 教会の土台はイエス・キリストです。ある時主は弟子たちにご自分のことをどんな者と考えているのか尋ねたとき、ペテロが次のように告白しています。「シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは、生ける神の御子キリストです。』・・・」(マタイ16:15)主はこの告白をたいへん喜び、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)初めて「教会」ということばがここに出てきます。牧師が教会を立てるのではありません。主ははっきりと言われたのは、「わたしが、この岩の上にわたしの教会を建てるのです。」確かにペテロは「岩」の意味もありますが、ペテロに上に教会を建てるという意味ではありません。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」との信仰告白の上に教会が建つのです。
 問題は、この告白をする者が激変し、まったく新しい人格に変えられることを理解していないのです。多くのキリスト者がこの告白をしてバプテスマを受けはします。しかし、試練に会ったり、世の惑わしに翻弄され神のみこころに従い通すことができない事です。イエス・キリストという土台を据えたにも拘わらず、コリントの教会はその上に木や草やわらで建てようとしたことに対してパウロは、「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。」(Ⅰコリント15:12)このような教えはその最たるものです。真の弟子とはキリスト告白が明確で、行いとことばに矛盾がないのです。これがキリストの弟子です。そのような神の器が2~3人集まれば、そこに教会は建つのです。

2018年4月08日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》     『あえて愚かな者を・・』(Ⅰコリント1:18~31節)
 「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』・・」(Ⅰコリント1:18節)私たちは人よりも優れていなければ価値がないと思いがちですが、聖書はそう言ってないのです。このみことばにあるように神の前に強い者はなく、賢い者も誰一人としていないと言うのです。しかも、強い人を辱めるために敢えて弱い者を選ばれたのであり、知恵ある人を辱めるために愚かな者を選び、富んでいる者を辱めるために貧しい者を選ばれ、無に等しい者を神は選ばれたのです。だとすれば私たちは間違いなく、弱い者であり、愚かな者であり、取るに足りない者であったということになります。
 それなのにイエスさまを信じて救われているにも拘わらず、自分は弱くてダメな人間だと失望することは明らかに矛盾です。自分が弱く愚かで貧しく生きる価値さえない人間だと気付いたのならこれこそ何ものにも勝る財産というべきです。私たちの神はすべての人がこのことに一刻も早く気付いて欲しいと願っているのです。
 ただ単に自分の存在に失望するのでなく、神との出会いによってそのことを気付かされることが大事です。Ⅱコリント12:9節、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」まさにこれが真理です。自分の愚かさを神の前に素直に認めること、自分の弱さをそのまま神の前に認めることです。誇るものがあるとすれば「自分の弱さ」と「イエス・キリッストの十字架」だけで十分なのです。私たちは躍り上がって喜ぶべきなのです。

2018年4月01日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》     『ここにはおられません』(マルコ16:1~8節)
 主は苦い杯を飲み干して三日目によみがえられました。イエスさまは公生涯で三人の人をよみがえさせています。一人は会堂管理者ヤイロの一人娘(マルコ5:35~43)、もう一人はナインの寡婦の一人息子(ルカ7:12~15)、もう一人はマルタの兄姉ラザロ(ヨハネ11:1~45)です。この人たちはやがて死にました。しかし、イエスさまの復活はこれとは全く違うものです。槍で心臓を突き通され水と血が流れ出たと聖書は記しています。ですから、仮死状態などとは異なり完全に死んだ状態です。そのイエスさまが三日目によみがえられたのです。ヨハネ20:7~8節「イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。」とあるように、頭に巻かれた布切れはほどいた形跡はなく、丁度膨らませた風船に包帯を幾重にも巻いた後に外側から針で破裂させるようなものです。弟子たちがそれを見て主がよみがえられたことを確信します。
 旧約聖書には死を体験せず天にあげられた二人の人物がいます。ひとりはエノク(創世記5:24)、もう一人はエリヤ(Ⅱ列王記2:11)です。イエスさまの復活はこれとは全く異なり、イエスさまは完全に死んで墓に葬られましたが、三日目の朝には髪の毛一筋も残さずよみかえられました。その後、突然弟子たちの前に現れ焼いた魚を食べたり、生前と同じように彼らを教え、体に触ることさえできたにも拘わらず突如として弟子たちの目の前から姿を消し、40日目にはオリーブ山から弟子たちの見ている前で雲に乗って天に上げられました。神に義と認められた証拠です。

2018年3月11日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》     『必要なことは一つ』(マルコ14:3~9節)
 三百デナリもする高価な香油をイエスさまに注いだのはマルタの妹マリヤです。実はこの出来事の前に重要な伏線があるのです。それはルカ福音書10:38~42節です。その中で主は姉のマルタに語ったみことばがあります。「ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。』主は答えて言われた。『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』・・」主は現代に生きる私たち一人一人に対しても「ほんとに必要なことは一つだけ」と語るのです。これは私たちにとっても最も大事なことです。このことが分からなければ大事でもないもののために時間と労力を費やすことになります。しかも「この大事な一つのこと」を具体的に誰でも自分の日常生活に適応できるための最良のテキストとすることができます。
 ルカ10章では、イエスさまがこの3兄姉の所に来て何を語ったかは記されていません。しかし、マルコ14:8節からイエス自身が近々御自身が殺されることを彼らに語ったことは疑う余地がありません。弟子たちが初めて主の受難のことを語ったのがマタイ16:21節です。そのときペテロはマリヤと反対の行動を取っています。その結果主に「下がれ。サタン」と叱責されます。神を愛することは、神のみことばに従うことです。真にイエスさまを愛していたのは弟子たちよりマリヤであったことがわかります。

2018年2月04日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》       『悪魔、悪霊』(マルコ5:1~20節)
 キリスト者の中でも聖書を読んでいながら悪霊の存在を信じない方もおられますが、悪霊からすればこれほど都合の良いことはないわけです。東京駅のど真ん中に大きな看板で「ここにはスリはいません」と言うようなもので、スリにとってこれほど都合の良いことはありません。イザヤ14:12~17節「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。・・・」。「欽定訳聖書」は1611年に訳されましたが、その中で14:12節の「明けの明星」をルシファー(Lucifer)と訳したことは高く評価されて良いでしょう。最近のニューエイジ(世界的悪魔宗教)の最終目的はルシファー礼拝、サタン礼拝です。ニューエイジの本にはこのルシファーの名前が多く登場しますが、彼らはこのルシファーがサタンと同じ存在であることに気付いていません。ですからこの箇所は「明けの明星」と訳すことは賢明でないのです。
 このみことばから、サタンがもともと高貴な天使、御使いであったことがわかります。彼は自分の知恵と富みに陶酔し、傲慢になり神の座に座ろうと企てます。その瞬間に彼は落とされ神に敵対する存在へと変質したのです。彼に同調した御使いは全て落とされました。そのことがユダ書6節とⅡペテロ2:4節にも記されています。この悪魔・悪霊は全世界どこにも存在し、またどの時代にも存在し、文明と科学が発達したこの便利な現代にあっても例外ではないのです。