2019年9月15日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『神の備え』(ルツ記2:1~12節)▼ ナオミは失意の中10年ぶりに郷里に帰ってきます。それこそすべてを失ったわけですから、神に見捨てられ呪われていると噂されても当然の状況です。しかし、ルツ記のどこにも夫のエリメレクも息子のマフロンとキルヨンが神に嫌われるような罪を犯したことなど記されていません。ヨハネ福音書9:1~3節「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』・・・」▼ 弟子たちでさえ因果応報的な考えで物事を見ていたということは、モアブにおいてもベツレヘムに帰ってもナオミがそのような目で見られても不思議ではありません。しかし、ルツ記を読み進めると、人生の中で不幸のどん底と思えるような時でも神の計画は順調に滞りなく進められていたことを知ることができます。私たちは自分の思惑通りに事が進まないと不安を覚えたり思い煩うことがありますが、主のみこころに従ってさえいれば、たとえ周りから冷たい視線で見られるようなことがあっても何ら問題ではないのです。私たちはルツの信仰から多くを学ぶ必要があります。ボアズもルツの信仰を賞賛して、「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。」(ルツ記2:11)

2019年9月01日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『過酷な災難』(ルツ記1:1~7節)
 ルツ記の時代背景は、「さばきつかさが治めていたころ・・」とあるので、ヨシュアによって約束の地を占領し、その後初代イスラエルの王サウルが即位する前のBC1150年頃と思われます。士師の時代は、問題が起ると神はギデオン、サムソンなど力強いリーダーを立てその問題を見事に解決していた時代です。また、「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(士師記21:25節)とあるので霊的暗黒時代でもあったのです。
 エリメレク一家はベツレヘム(別名:エフラテ)に住んでいましたが、この時飢饉のために苦境に直面し、しばらくモアブの地に逃れます。モアブの祖先は創世記19:37~38節「姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。」とあるのでアブラハムの甥のロトの子孫ということになります。モアブに滞在した期間は約10年です。しかし、その間にナオミの夫エリメレクが亡くなり、結婚したばかりの二人の息子も相次いで亡くなり、残されたのはナオミと二人の嫁だけです。しかも二人の息子には世継ぎが一人もいなかったのです。ナオミはベツレヘムが再び祝福されていることを聞き郷里に帰る決心をします。ナオミにとってこのモアブでの10年間は不幸を絵に書いたような状況です。本来ならイエスさまの系図はここで途絶えていたはずです。しかし、神は人間には想像すらできない方法で兄嫁ルツは救い主の系図に名を連ねることになります。

2019年8月25日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『驚きのあまり・・』(創世記45:1~15節)
 弟ヨセフに対して行った過去の非道な行為に加え、ベニヤミンを父ヤコブのもとに連れ帰ることができなくなった現状に直面し、これらすべての過ちを一心に背負い自ら犠牲になろうとするゆだの心からの告白を聞いている内にヨセフは感極まり涙を流し号泣します。
 この時ヨセフは自分が兄弟であることを告白しますが、あまりの衝撃的な内容に兄弟たちは混乱し狼狽します。少し冷静さを取り戻すと自分たちの前にいる方が確かに弟ヨセフだと確信しもう疑う余地はありません。ヨセフの生涯はイエスさまの姿と重なるところが多くあると言われますがこれはこじつけではありません。
 イエスさまも同胞から憎まれて十字架刑で殺されました。ユダヤ人たちはまさかナザレのイエスがメシヤだとは頭の片隅にもありません。あの出来事から二千年を経た今も自分たちの先祖がしたことは正しかったと信じ、未だに罰のメシヤを待ち望んでいます。兄弟たちがヨセフを認めたのは豊作の7年の間ではありません。大凶作の始まって2年が過ぎた頃です。ですから、イスラエル人がイエスさまをメシヤと認めるのは終末7年間の艱難時代のまっただ中の可能性が大です。「その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」(セカリヤ12:9~10節)

2019年7月14日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『奴隷に売られたヨセフ』(創世記37:12~36節)
 ヤコブの11番目の息子として生まれたヨセフはラケルとの間に生まれた初子であったこともあり、その溺愛ぶりは他の兄弟たちからすれば面白くないのも当然です。その上、ヨセフが見た夢は兄弟たちを一層妬みに駆り立てるものでした。他の兄弟たちからすれば、父から特別扱いされたことによる思い上がりとしか映らなかったのかもしれません。今朝の箇所は、ヨセフの兄たちが日頃の思いを実行に移す良い機会と捉えたのです。しかし、このことはヨセフの思い上がりから出たものではなく、神の計画の中で行われたことは聖書を読めば一目瞭然です。
 神はヨセフの兄弟たちが犯した罪をも良いことのために用いられます。創世記50:20節「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」また、詩編105:17~23節も同じ内容です。「主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中にはいった。彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。王は人をやってヨセフを解放し、国々の民の支配者が、彼を自由にした。王はヨセフを自分の家のかしらとし、自分の全財産の支配者とした。これはヨセフが意のままに王の高官を縛り、王の長老たちに知恵を与えるためだった。イスラエルもエジプトに行き、ヤコブはハムの地に寄留した」ヨセフの生涯を追って行くと、イエスさまの生涯と重なるところが多くあることに気付きます。

2019年6月23日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『わたしに倣って欲しい!』(ピリピ3:12~21節)
 パウロはⅠコリント4:16節で「ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。」と言い、同11:1節にも「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」パウロは臆することなく自分を模範として後に従って欲しいと言っているのです。受け取り方次第では傲慢のようにも聞こえますが、イエスさまにお会いしてからのパウロはすべてに置いて変えられました。 何をするにしても主のみこころを最も大切にして行動したと言えます。パリサイ人として非常な熱心をもって神に仕えてきた経験から多くを学びました。以前の彼は律法に熱心になることは人生そのもので、そうしない者に批判的でした。律法主義者の陥り易に罠に見事にはまっていたことに気付かなかったのです。
 彼がイエスさまに出会うことがなかったなら惨めな人生を送るしかなかったでしょう。確かに神の律法は永遠に変わることはなく、正しいことは言うまでもありません。しかし、律法に支配される人は、真剣に神のみこころを追い求めます。しかし、それを見い出したという確信を得ることがないのです。熱心になればなるほどただ義務感は強くなり、自分のように熱心でない人を批判しさばくようになるのです。しかし、主イエスとの親しい交わりを喜ぶ者は苦労なくみこころがわかるのです。主との生きた交わりを深めれば主ご自身が私たちのみこころになって下さるのです。それだけでなく主ご自身が私たちの義となり、聖めと贖いと信仰と希望と赦しと知恵と知識と平安と力といのちとなって下さるのです。サタンに騙されないようにしましょう。

2019年6月09日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『信仰』(ヘブル11:1~6節)
 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6節)多くの場合神がおられることを信じていますが、求める者の祈りを聞いて下さる方であると信じる人は意外と少ないのです。また信仰は人間の努力でできるものでもありません。使徒3:16節「イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」とある通りです。みことばを更に強く信じることができるように神に祈らなければなりません。
 Ⅰコリント12:9節「またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、」とあるように信仰も賜物の一つであることがわかります。
 使徒たちがルカ17:5節で次のように主に懇願します。「私たちの信仰を増してください。」イエスさまの答えは意外なものでした。「しかし主は言われた。もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。」(17:6)からし種のことをマルコ4:31節で「地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですがそれが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」信仰は生き物で、失敗を恐れないで使えば使うほど大きくなるのです。問題は失敗を恐れて使わないことです。やがて信仰は死んだ状態になりいのちを失うのです。

2019年5月26日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『わずかのパン種が・』(ガラテヤ5:2~15節)
 主は言われます。「人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」(マタイ9:17節)このみことばの意味は、イエスさまの新しい教えは旧約聖書を軽視するものでもなく、否定するものでもなく、また矛盾するものでもないのです。それゆえに聞く者からすれば一層理解することが難しいのです。改心以前のパウロでさえこの真実に気づかずキリストの教えを真っ向から反対し先頭に立って迫害することさえ厭わなかったのです。そうすることが正しいと確信し疑わなかったのです。
 しかし、ダマスコ行きの途上、主の憐れみによって自分が間違った考えに囚われていることに気づかされます。その時の彼の動揺と不安は想像すらできないほどです。イエスさまの教えを理解するためには入れ物も新しいものに換えないと収まらないのです。ここでの問題は「救いを得るために行いが必要かどうか」ということです。答えは「否」です。救われるために行いが必要だと言うことを受け入れたとき、救われることが不可能になるのです。マタイ16:12節「彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。」また、Ⅰコリント5:8節「私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」お互い心したいものです。

2019年5月19日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『幼稚な教え』(ガラテヤ4:8~20節)
 パウロは元々律法に熱心なパリサイ派に属し、ガブリエルの一番弟子であることを自他共に認める存在でしたから、そのまま進めば将来イスラエルの有能な指導者の一人になれると期待される程の器です。イスラエルは選ばれた民であり、その神との契約を守ることによって救いを得ることは当然でありイスラエル人の誇りです。ですから、主を信じただけで救いを得られるなどとは戯言に思えたのでしょう。
 その結果、信者たちに対しても異常なほどの憎しみに駆られ祭司長の許可まで取り付け、ダマスコにいる信者を捕縛するために向かう途上で神に打たれる経験をします。彼は再び目が見えるようになると、アラビヤでしばらくの間神との交わりを通して自分がとんでもない間違いを犯したことに気づかされます。「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」(ローマ10:2~4)それまでパウロは救いは行いによるのだと信じて疑わなかったのです。しかし、それはまさに幼稚な教えでしかないことに気づかされます。「もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、『すがるな。味わうな。さわるな。』というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。」(コロサイ2:20~22節)

2019年5月05日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『本心を偽る行動』(ガラテヤ2:11~21節)
 「ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。」(ガラテヤ2:11)イエスさまを信じて救われた異邦人に対してユダヤ人と同じように割礼を受けさせるべきだと主張するユダヤ人たちの目をはばかって徐々に異邦人から距離を置くようになったペテロの偽善的な振る舞いに対してパウロは激しく叱責します。さすがのペテロもタジタジです。
 どうしてパウロはこれほどまでにこの事にこだわったのでしょう?それはキリスト教の根幹とも言うべき救いの問題が関わってくるからです。ガラテヤ5:1節「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」パウロ自身も救われる以前、「救い」とは神との契約である律法に従うことでなのだと熱狂的に信じていたも者の一人であったからです。彼は自分の経験から律法を守ろうとすればするほど律法の奴隷となり、救いから遠ざかることを身をもって体験したがゆえにこの問題に対しては妥協できなかったのです。私たちも自分か救われたのは努力したからだと思い上がってはならいのです。エペソ2:8節にこう記されています。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」パウロとペテロの信仰の違いは次のみことばにあると思われます。「もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」(ガラテヤ1:10)私たちも心したいものです。

2019年4月14日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『他人を救ったが・・』(ルカ23:26~43節)
 イエスの十字架には様々な立場の人たちが関わっていて、大きく分けて四つに分類することができます。第一は政治的、宗教的に民衆の指導的立場にあった祭司、律法学者、バリサイ人、サドカイ人たちです。第二番目は、強大な権力の下にユダヤを支配していた為政者、ここで言えばローマの総督ピラトでしょう。第三は民衆です。第四は弟子たちです。弟子たちもイエスさまを十字架につけた張本人だと気づくことは難しいのですが、マルコ14:31節「 ペテロは力を込めて言い張った。『たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。』みなの者もそう言った。」とあるように弟子たち全員が口を揃えて裏切ることを自分の口で否定しています。そしてその直後イエスさまが捕縛されるとイエスさまを見捨てて一目散に逃げたのは周知の事実です。これも立派な裏切り行為です。
 創世記でもそうですが、神はただお一人で天地を創造され人間はこれ何一つ関わってはいません。イエスさまの十字架も人類が犯した罪の問題を唯お一人で完全に解決し「完了した」と叫んで息を引き取られました。私たちのために救いの道を開いて下さったのです。救いを受けるためには難行苦行をしなければならないと思っている人もいますが聖書を読む限りそれは間違いです。救いを受けた強盗は十字架にかけられてからもイエスをののしっていたと書かれています。この強盗は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)この叫びを最も身近で聞いたのです。そして改心し見事に救われました。

2019年3月24日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『九人はどこに?』(ルカ17:11~21節)
 主がある村に入られると10人のツァラアト(らい病)に冒された人たちの出迎えを受けます。しかし、彼らは病気の故に家族とも一緒に暮らすこともできません。その生涯は実に悲惨なものです。そのような理由でイエスさまの近くに来ることもできないので、遠くから大声で病気からの清めを懇願します。主は彼らに「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」と答えますが、その時点では何も起こりません。しかし、彼らはそのことばを信じて祭司の所へ歩き始めます。彼らはその途中で病から清められたことに気づきます。その時の彼らの喜びは譬えようがないほどです。しかし、そのことを感謝するためにイエスさまの所に引き返して来たのはサマリヤ人だけです。
 19節「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」これは新改訳ですが、口語訳と共同訳では「あなたの信仰が、あなたを救った」と訳されています。この場合、口語訳と共同訳の方が適切だと思われます。それは、主は十人すべて癒やされたと語っているからです。魂の救いを受けることができたのはこのサマリヤ人だけなのです。このサマリヤ人は病の癒やしに加え救いも受けました。残りの九人は病は癒やされましたが永遠のいのちを頂くことはできなかったのです。このサマリヤ人は恐ろしいツァラアトに冒されましたが、その苦しみのお陰でメシヤに出会うことができたのです。健康であったらイエスさまのもとに来ることはなかったでしょう。人生何が恵みをもたらすかわかりません。私たちは視点を変えて物事を見る必要があります。目が見えるようになったことをきっかけにメシヤ告白をして主を礼拝した盲人もそうです。(ヨハネ9:35~38)

2019年3月03日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『主の祈り』(ルカ11:1~13節)
 今朝は「主の祈り」について学びます。弟子たちは「ヨハネが弟子たちに教えたように」とありますから、ヨハネは自分の弟子たちに祈りを教えたようですがその具体的な内容は記されていません。しかし、イエスさまが弟子たちに教えた祈りのことばは正確に記されています。マタイ福音書では6:1~15節に主の祈りの記述があります。主が来られた時のイスラエルの宗教指導者の実情は深刻で、祈りにしても行いにしても人に見せるための偽善的で形式的なものが蔓延していたことが記されています。このような状況はいつでもどこでも起こり得る問題です。現代の私たちにとっても人ごとではありません。
 ですから主の祈りに込められた意味について考えてみましょう。まず、冒頭の「天にいます私たちの父よ」について検証します。エデンの園においてアダムと神との関係は父と子の関係で良好でした。しかし、あの罪によってこの関係が崩れてしまいました。イザヤ書59:2節「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いて下さらないようにしたのだ」とある通りです。それ以来人類は神を「お父さん」と呼ぶことができなくなり勘当された状態です。ヨハネ5:18節には、主が十字架にかけられた三つの原因が記されていて、その一つが「神を自分の父と呼んだから」とあり、弟子たちにもそう呼ばせたことが神への冒涜と見なされたのです。私たちと父なる神との間に立ちはだかる罪の問題を、主は十字架において完全に解決されました。その結果私たちは父と子の関係が回復し、再び神を父と呼ぶことが許されたのです。その恵みをもたらしたのが十字架の死と復活です。このことに心から感謝しましょう。

2019年2月24日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『妹マリヤの苦悩』(ルカ10:38~42節)
 今朝の聖書のみことばは今でも多くの物議を醸し出す箇所でもあるので特に時間をかけて学びたいものです。マルタとマリヤとラザロは、羨ましいほどイエスさまから愛された姉弟です。ヨハネ11:5節「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」とありますからお姉さんのマルタも愛されていたことがわかります。ですから、姉のマルタのもてなしの行為よりもみことばに耳を傾けることが大事なんだと決めつけることは早合点と言えるでしょう。では、ここの箇所はどのように理解すすることが正しいのでしょうか?
 そのことを理解するにはイエスさまが言われた「どうしても必要なことは一つだけです。マリヤはその良い方を選んだ」のみことばの意味が何であるかを的確に知ることです。口語訳では「無くてならぬものは多くはない。」となっています。大事なことは一つだけだと言うのですが、それが具体的に何であるかは記されていません。そのことを知る手ががりはこの出来事の後、マリヤはどのような行動を知ることです。それはマルコ福音書14:3~9節に記されています。特に注目して頂きたいのは8節です。「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」彼女はすでにイエスさまが十字架で死ぬことを受け入れています。これは自分が死ぬことより辛く激しい心の痛みを伴うものです。創世記22章のアブラハムがイサクを殺して神に捧げたことと同じ苦しみです。アブラハムがイサクを捧げる決心をした時こそアブラハムが神を愛していることを決定づける瞬間です。1ヨハネ5:3節「神を愛するとは、神の命令を守ることです。」主は言われます。「あなたは人のことを思わないで、神のことを思っています。」

2019年2月17日(日) 主日礼拝メッセージ

粒の麦》    『それを実行しなさい』(ルカ10:25~37節)
 一人の律法の専門家が主に尋ねます。「イエスをためそうとして言った。『先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。』・・」(10:25)彼は答えがわからなかったので質問したのではなく、主をためそうとしたのです。10:29節には「しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人とは、だれのことですか。』・・」彼は自分がそれをいかに実行しているかを示そうとしてこのような質問をしたことがわかります。彼の問題は勘違いと思い込みです。これは大きな問題です。その勘違いを諭すために強盗に襲われた人の譬えを語ります。
 当時ユダヤ人はサマリヤ人を混血の外国人として蔑んでいました。そのためサマリヤを通ることを嫌ってわざわざ回り道をすることが常であったのです。ヨハネ福音書4:9節はこのことを裏付けるみことばです。通りがかった祭司は瀕死の状態で横たわっている彼を見て、気付かぬ振りをしてそそくさと反対側を通り過ぎてしまいました。その後に来たレビ人も同じように去ってしまいました。律法を教え、守っているはずの祭司とレビ人の行動に彼は混乱し絶望したことでしょう。その後に常日頃からユダヤ人から差別され忌み嫌われているサマリヤ人が彼の視界に入ってきます。サマリヤ人はつばきをはきかけて嘲笑しながら立ち去ると思いきや、彼に近づき持っていたオリーブ油とぶどう酒を注いで手当をしロバに乗せて宿屋まで運び一晩中看病し、かかった全費用まで負担します。自分にとっての隣人はサマリヤ人です。マルコ10:17~22節に登場する多くの財産を持っていた青年と問題と全く同じです。彼も幼い時から律法を忠実に守ってきたと自負しているからです。

2019年1月27日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『レビ(マタイ)の回心』(ルカ5:27~32節)
 今朝の聖書箇所は、12使徒の一人であるレビ(マタイ)の回心の出来事が詳細に記されています。この箇所を読んで驚く事は応答の早さです。取税人の仕事に熱中しているレビに対して主は「わたしについて来なさい」と声をかけ、その呼び掛けに考えることなく反射的に行動しているように見えます。私たちが感じる以上にレビの心と頭は冷静で正常な判断の結果であったと誰もが認めざるを得ません。キリスト者にとってこのような即決行動をしなければならないときが多々あることを覚えていなければなりません。しかも、決心したこととに対して途中で止めないことも重要です。ルカ9:59~62節「イエスは別の人に、こう言われた。『わたしについて来なさい。』しかしその人は言った。『まず行って、私の父を葬ることを許してください。』すると彼に言われた。『死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。』・・・」
 そしてここにはもう一つ大事な事が語られています。それは31~32節です。「そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」 私たちは聖なる神の臨在を経験したことがないために他人と比べて自分の方が優れているとか、劣っているとか判断しますが、これは賢明な方法ではありません。なぜなら私たちは聖なる神の前に立たない限り自分の本当の姿を知ることが出来ないからです。「神認識は同時に自己認識である」と言われる所以です。

2019年1月06日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『聖霊と火とのバプテスマ』(ルカ3:7~20節)
 主イエスは、マタイ11:11節に「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」とバプテスマのヨハネを指してここう言われます。それは間違いなくヨハネが他の預言者と際だって優れていたと言うことです。その一つがメシヤの姿を的確に預言していると言うこと。次のヨハネの告白からもその一端を伺い知ることができます。「ヨハネはみなに答えて言った。『私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。』・・」(ルカ3:16)ヨハネは自分がイザヤ書40:3~5節に預言されている当の者であることを十分理解し、自分がこの方の露払い的存在であることを心得その様に生き抜かれたのです。 「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」(3:9節)「良い実」とありますが、これは「御霊の実」のことと理解しています。これはガラテヤ書5:22~23節に記されているのと同じものです。ではなぜ御霊の実を結ばなければならないのでしょう。それはエペソ4:15節「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」それと、御霊の実を結ばないと神の栄光を表すことができないからです。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:8節)

2018年11月18日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『聖霊を痛ませた民』(イザヤ63:1~14節)
 旧約聖書の中にも聖霊に関する事柄が記されている箇所があります。今朝のイザヤ書63章もその一つです。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。」イスラエルの民がエジプトで奴隷として酷使され耐えられない苦役の中で父祖の神に助けを求めたとき、神はモーセを通してエジプトを脱出させます。
 神の助けがなければ到底成し得なかった奇跡です。彼らは目の前で起こる数々の超自然的な奇跡を自分の目で見たのです。極めつけは紅海の奇跡です。二つに分かれた海の底を歩いて対岸に渡り終えました。エジプトの軍隊も彼らの後を追って来ましたが押し寄せる水に呑み込まれました。これほどの奇跡を見たにも拘わらず、問題が起こると公然と不平を言いその矛先をモーセに向けます。聖なる御霊を痛ませたとはこう言うことです。分かり易く言うと、「お母さんをいじめて困らせたのでお父さんが出てきて彼を懲らしめた」いうようなものです。エペソ4:30節に次のようなみことばがあります。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」また、マルコ3:28節「また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」

2018年11月11日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『今日、この預言が・・』(イザヤ61:1~11節)
 今朝のイザヤの預言は、ルカ福音書4:17~21節「すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。』・・・」この預言が「今、成就した」と主は言われます。このことはイエスさま自身がメシヤ宣言をされたと言うことです。まさにイスラエルの民が待ちわびたメシヤの登場であり歴史的大事件です。人々は罪の赦し、いやし、解放を受けるのです。
 ヘブル2:14~15節「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」イエスさまが来なければ私たちは未だに奴隷状態で自分の罪の中でもがき苦しまなければならなかったのですが、使徒13:39節「モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」これは事実です。この奴隷の状態から主は私たちを自由にしてくださるのです。カラテヤ5:2節「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」主に感謝しましょう。

2018年11月04日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『讃美と祈りの家』(イザヤ56:1~8節)
 主がエルサレム神殿に足を踏み入れた瞬間、何かに取り憑かれたかのように宮の中にいた商売人たちを追い出し始めます。「それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21:12~13)この「祈りの家」はイザヤ書56:7節からの引用です。また、「強盗の巣」ということばはエレミヤ7:11節「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。」からの引用です。
 エルサレム神殿はAD70年、ローマ軍によって徹底的に破壊されイスラエルの民(ユダヤ人)は母国を失い亡国の民として世界を彷徨うことになります。ユダヤ人にとって神殿を失うことは想像を絶する痛みです。自分の罪を贖うためのいけにえを捧げる場所を失ってしまったのです。いけにえを捧げる場所は一つしかないのです。申命記12:13~14節に「全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。」とあるからです。しかし、キリスト者にとって神殿がなくても困ることは何一つありません。その人自身が神殿となっているからです。裏を返せば汚れから遠ざかる責任が伴うのです。今イエスさまが神殿である私たちを訪れて下さったら強盗の巣だと激怒しないでしょうか?

2018年10月21日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『神は我が避け所、わが力』(詩篇46:1~3節)
 「彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。」(詩18:1~3)私たちは無意識のうちに自分の能力、努力で何でも成し遂げようとします。いやそう考えることが常識であって、そうしない者は怠け者と見なされることさえ起こります。しかし、ダビデはそのような考えを真っ向から否定します。ダビデにとって主は自分の全てであり、自分の存在はすべて神に依ることを告白してはばからないのです。
 パウロもローマ9:16節に「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」と告白します。
 また、エペソ2:8~10節「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」とある通り、このことは旧・新約聖書の根底に流れている真理です。ですからキリスト者は主に委ねることは当然の姿です。しかし、現状はかなり事情が違うように見えます。委ねますと告白しながら恐れ、不安、思い煩いに支配されています。しかもそのことに矛盾を感じていない人も多いのです。委ねるとは問題を神の手に渡すことです。

2018年10月07日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『神の前に富む』(詩篇1:1~6節)
 このみことばと同じような箇所がヨシュア記1:8節にあります。「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」また申命記6:6~8節「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。」これは単に暗唱聖句の概念に留まらず霊的解放、神の栄光、御霊の実を結ぶことなどあらゆる恵みをもたらします。
 昼も夜もただみことばを繰り返すのは単純で賢明とは思えないかも知れませんが事実はそうではありません。大事なことはこれを継続して途中で止めたりしないことです。その結果自分でも想像できなかった平安と喜びが心の内面から溢れ出てくることに気づくようになるでしょう。継続することによって少しづつ自分の考えが変えられていきます。それによって神との交わりも緊密になります。詩篇119:103節「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」また、エレミヤ15:16節「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」 これは主が私たちに最も望んでいることなのです。皆さまの祝福をお祈りします。

2018年9月30日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『彼の力は去った』(士師記16:18~31節)
 サムソンはまた、ソレクの谷にいたペリシテ人の女性デリラを愛するようになります。それを知ったペリシテ人の領主たちは莫大な報酬を約束してサムソンの力の源を聞き出すようデリラを口説き成功します。デリラは若くて美人であったかも知れませんが、自分の夫(?)をお金で売り渡すような女性と一緒に暮らすサムソンの考えも理解に苦しみます。14章のペリシテ人女性との件は主のご計画であったと4節に記されているのでなんとか理解できます。「彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。」(14:4節)しかし、デリラとの成り行きは神の計画であったかどうかはわかりません。
 4節の後半に「主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。」とあるので今回のデリラとのことも主の導きと考えられないことはありませんが、淫乱と好色のうちに異国の女性と戯れるサムソンは、神との交わりを疎かにしナジル人としての自覚も忘れてしまい、執拗にせがむデリラの要求に屈し自分の力の源を明かてしまったサムソンに落ち度がなかったと考えて良いのでしょうか。
 堕落した生活を送っているうちに主の臨在が自分から去っていることにも気付かないサムソンの失敗は私たちに対する警告のように感じられてなりません。私たちはむしろさらに神の力に満たされるために勤勉でなければなりません。祈ること、聖書を読むこと、昼も夜もみこたばを口ずさむことを怠ってはなりません。また、主が嫌っておられる悪習寛からも決別しなければなりません。

2018年9月16日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『ナジル人サムソン』(士師記13:1~5節)
 神はイスラエルをペリシテ人から救うために一人の人を世に遣わそうとしています。その子どもの両親として選ばれたのがダンの氏族でマノアとその妻です。マノアの妻は不妊の女で子どもを産んだことがなく、おそらく子どもが与えられることを諦めていたのかも知れません。そのようなことを考えるとロ-マ書9:16節「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」とのみことばは頷けます。
 ナジル人とは、「聖別された者」の意味で特別な使命を果たすために神によって特別に選ばれた器で、それ故いろいろな誓願の規定が定められたいたわけです。そして彼の妻にも一時的にナジル人の誓願を守ることを求められます。「今、気をつけなさい。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。」そして彼女は預言されたように男の子を産みます。その子がサムソンです。そして生まれる男の子の守るべき誓願は「見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。」(13:5節)どんな理由であれ髪の毛を生涯切ってはならないというものです。厳しい掟は聖別された者の宿命です。
 イスラエル人も民族として守らなければならない誓願が多くありました。厳しい食物規定、土地に関する規定、守らなければならない祭りの規定、神殿に捧げるいけにえに関する規定などなど。それは彼らは救世主を世に送り出す特別な使命の故です。

2018年9月09日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『娘の信仰』(士師記11:29~40節)
 いよいよアモン人との戦いは避けられない状況で敗北は許されません。戦いに先立ってエフタは神に誓願を立てます。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」(士師記11:30~31)というものです。エフタはどのような思いで自分の家に近づいたのでしょう。そして最初に出迎えたのは勝利を喜ぶエフタの一人娘です。その時エフタの心は天国から地獄に突き落とされます。
 それ以上に私たちの心を揺さぶるのはエフタの娘のけなげな信仰です。事の真相を知らされたエフタの娘は迷うことなく次のように言います。「すると、娘は父に言った。『お父さま。あなたは主に対して口を開かれたのです。お口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アモン人に復讐なさったのですから。』・・」(同11:36節)これはアブラハムが一人子イサクをモリヤの山でいけにえとしてささげたときの信仰と同じものです。イスラエルをアモン人から救うために神がエフタを選ばれた理由の一つにこの誠実性と忠実性があります。民数記30:2節に「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」エフタの信仰は行いを伴ったものであり、娘の信仰も父の信仰に勝っても劣りません。しかし、主はマタイ5:34節で「決して誓ってはいけません。」と言われたのは何故?

2018年8月19日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『主の道を行く』(創世記24:1~27節)
 「主のみこころ」とか「神の計画」とかキリスト者がよく使うことばですが、それを日々の生活の中に適用するとなると、いささか戸惑いを覚えるのも誰しも経験することです。神のみこころを知ることを難しくしているものがあります。それは「肉の思い」です。ローマ書8:5~7節「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」このように私たちの体の中に相反する二人の人物が同居しているようなものです。同じようなことはガラテヤ書5:17~18節にもあります。「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」また、Ⅰヨハネ2:15節「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」
 以上のことからわかることは、私たちは生まれながらにして罪深い性質をもっていると言うのです。キリスト者でなくとも素晴らしい考えと行動を伴った人はいます。それでも永遠のいのちを持っているわけではなく、神の呪いの対象であることに変わりはないのです。しかし、救われた方がすぐみこころの通りに歩めるわけではありません。みこころの通りに歩むためには聖霊に満たされる必要があるのです。

2018年7月22日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『塩の柱』(創世記19:15~29)
 アブラハムは何度も何度も神に食い下がり、50人から始まって10人正しい人がその町に見出されたらさばきを思い直すとの約束を取り付けます。ロトの家族だけでも10人位は必ずいるはずとの確信はあったと思いますが思惑ははずれました。「そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。『立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。』しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。」神の警告を無視した結果ソドムとゴモラの運命は最悪なものとなりました。二人の御使いはロト夫婦と二人の娘を助けるため町から逃れさせようとし、守るべき忠告を与えます。その内容は「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」(19:17節)
 彼らはツォアル目指してひたすら歩を進めますが、突然ロトの妻が振り返り、その瞬間塩の柱になってしまいます。きっとソドムに残してきたものに未練を感じたのでしょう。この出来事は私たちにとっても他人事ではありません。そもそも私たちは裸でこの世に生まれてきたわけです。しかも死ぬ時何一つ携えて出ることもできません。私たちはこの地上が永住の地だと勘違いしてはならいのです。「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」(Ⅰペテロ2:11節)また、「信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル11:13節)。

2018年7月15日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『破れ口に立つ』(創世記18:20~33)
 ソドムとゴモラの罪は神が見過ごしできない状態にまで達し、事実かどうかを見極めるために三人の御使いが降ってきます。その内一人はイエスさまと思われます。二人の御使いはアブラハムを離れてソドムの町へ向かっています。18:22~23節「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。アブラハムは近づいて申し上げた。『あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。』・・」、
 アブラハムにとってソドムとゴモラが滅ぼされないためにいのちをかけた戦いが始まります。ソドムに甥のロト家族がいることも脳裏にあったでしょう。彼はまず、「ソドムに五十人の正しい人がいても神の計画は変わらないのですか?」と迫ります。それに対して神の答えは、「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」というものです。アブラハムは幾度も食い下がり「では、十人いたら?」と図々しいと思えるほどに神に迫ります。そしてついに「滅ぼすまい。その十人のために。」との神の約束を取り付けたのです。アブラハムの頭にはある意味安心感があったでしょう。しかし、後日アブラハムは悲惨な現実を目の当たりにします。わずか十人の正しい人がいなかった悲惨な現実を目の当たりにします。このような信仰の行為はモーセにも見られます。出エジプト32:31~32節です。また、パウロもそうです。ローマ書9:3節に彼の信仰がにじみでています。極めつけは十字架上のイエスさまの叫びです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34節)

2018年7月01日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『行いを伴う信仰』(創世記12:1~9節)
 いよいよアブラムの登場です。舞台はウルの地とあるので現在のイラク地方と考えられます。まず、アブラム一族は父テラも一緒にハランまで来そこに長らく滞在し、父テラはハランで死んだとあります。そしてアブラムが75歳になったとき神のことばがアブラムに下ります。「その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。・・」(創12:1)アブラムはこの時点で創造主なる神の声を聴くようになっています。偶像崇拝に満ちていた地でアブラムはどのように創造主なる神を信じるようになったかは聖書は詳しく記していません。
 いずれにしてもアブラムはこの時点ですでに唯一絶対なる神に対する明確は信仰を持っています。当時は神に示された地がどういう所か全く予備知識などありません。ただ神の導きだけをたよりに旅立っています。ここにも卓越したアブラムの信仰の一端を伺い知ることができます。ヘブル書の著者はこのことを次のように記しています。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」(ヘブル11:8)これは神との絶対的な信頼関係がなければできるものではありません。ヤコブ書2:23~24節「そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」私たちの信仰もかくありたいものです。

2018年6月10日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『掛けられたおおい』(Ⅱコリント4:1~7節)
 割礼ということばが聖書の中に登場するのは創世記17章10節です。そして同13節「あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。」それ以後、選民イスラエルとしてのしるしと誇りは割礼に象徴されると言っても過言ではありません。割礼を受けていない者はイスラエル人として認められなかったのです。しかし、旧約時代のイスラエルの人たちは割礼の真の意味を理解していなかったと思われます。
 パウロがこの割礼の意味を啓示されたとき、愕然としたことでしょう。ローマ2:28~29節「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」
 私たちもまた例外ではなく、生まれながらにして心にはおおいが掛かっているというのです。その心のおおいを取り除くことを象徴的に表したものが割礼という儀式です。この世の神(サタン)は人々におおいをかけ霊的盲目状態にしイエス・キリストが神であることを信じないよう惑わしているのです。霊的盲目であるかないかは、イエス・キリストが誰であるか知っているかそうでないかでわかります。主が語られたことばが真理であると確信し、それに従って行動している人はおおいが取り除かれているのです。私たちは大胆に確信をもって「主こそキリスト」と宣言しましょう。

2018年6月03日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『キリストの香り』(Ⅱコリント2:14~3:6節)
 マタイ5章16節に次のようなみことばがあります。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」このみことばは曲解するととんでもない悪影響をもたらします。見せる信仰を演じてしまう危険性があることを十分気注意しなけなければなりません。「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」(Ⅱコリント3:6)このみことばにあるように私たちは古い契約と新しい契約の違いを明確に理解していなければなりません。パウロはこの違いを身をもって体験したのです。石の板に書かれた律法をいのちがけで守ろうとした努力の人です。律法は命がけで守ろうとすればするほど救いから遠ざかることを彼は知らなかったのです。律法に欠陥があるということではありません。律法は永遠にして完全で正しいものです。
 では正しいはずの律法がどうして人間に死をもたらすのでしょうか?それは、人間の義が神の義に対して不完全なものだからです。完璧にみえる人間の素晴らしい業も神の目には全く汚れていることに気付いていないのです。Ⅱコリント3:3節「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」この中に「心の板に書く」とありますが、信じる私たち一人一人の心の中に聖霊さま御自身が入って来られ全く新しい人に造り変えられると言う意味です。そのような人は内側からキリストのかおりが放つようになります。

2018年5月20日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》     『異言より預言の賜物を』(Ⅰコリント14:1~19節)
 どういう訳か教会では預言とか異言について公に語ることが少なくなったように感じます。むしろ触れてはいけない事柄のような扱いになっているとさえ思われてなりません。悪霊追い出しについても聖霊のバプテスマについてもそうです。このような流れはみこころではありません。なぜなら聖書がそのよう言ってないからです。そのようなことを積極的に証しする人たちを異端であるかのように扱いさえするのです。このようなことはキリスト教界にとって決して良い傾向とは言えません。
 日本のキリスト教会が低迷している原因の一つにこの聖霊さまの働きに対する未熟な考えがあると言わざるを得ません。
 しかし、聖霊さまの働きを積極的かつ熱心に求める方々の中にも問題がないわけではありません。これは一つの例ですが、そのような教会では異言を語ることが聖霊に満たされ成熟したクリスチャンであるかのように見なす傾向があり、そのため異言の集会を積極的に実施し、信者になった方々は一日も早く異言を語れるようにとそのような集会に熱心に出席します。
 確かに聖書には聖霊に満たされた人々が異言を語りだしたと記されていますが、異言をかたれるようになれば霊的クリスチャンだとは言ってないのです。異言を語れるようになった人は語れない人を見下げるようになることさえ起こります。語れない人はそのことを聞かれることが怖いのです。語れない自分は一人前でないのだと自分を責め、まわりからそのように見られることに対する劣等感に悩みます。このような状態はもは本来の教会の姿とは言えないのです。十分警戒する必要があります。

2018年5月13日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》     『愛によって働く信仰』(Ⅰコリント13:1~10節)
 Ⅰコリント13章は愛について知る上でとても重要な箇所です。どんなに大きな奇跡を行っても、末期の病人を数多くいやしても、それが愛に基づいていないなら何の意味もないというのです。さらにパウロは「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Ⅰコリント13:3節)と衝撃的なことばを続けます。私たちは愛があるからこそ自分の持ち物を貧しい人々に施しができるのではないかと考えます。また、愛がなければ自分の体を焼かれるために差し出しはしないだろうと思いがちです。しかし、世の中には愛がなくてもそのようなことができることを知る必要があります。三島由紀夫の割腹自殺は愛から出たことなのか考える必要があります。太平洋戦争で帰りの燃料を積まず飛び立った特攻隊員は愛国心はあったと思いますが、聖書の言う愛が動機だったとは思えません。中東で起こる自爆テロも同じです。だからこそ私たちはここで愛について真剣に考える必要があると思っています。
 ガラテヤ書5:6節に「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」聖書の言う愛は私たちの想像を超えたものです。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13節)また、Ⅱヨハネの手紙6節「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、・・」主が私たちに願っていることは、このアガペーの愛は私たちが生まれてこのかた誰も持ち得ていないということです。これは上から聖霊さまによって与えられるものだと知る必要があります。