2018年8月19日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『主の道を行く』(創世記24:1~27節)
 「主のみこころ」とか「神の計画」とかキリスト者がよく使うことばですが、それを日々の生活の中に適用するとなると、いささか戸惑いを覚えるのも誰しも経験することです。神のみこころを知ることを難しくしているものがあります。それは「肉の思い」です。ローマ書8:5~7節「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」このように私たちの体の中に相反する二人の人物が同居しているようなものです。同じようなことはガラテヤ書5:17~18節にもあります。「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」また、Ⅰヨハネ2:15節「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」
 以上のことからわかることは、私たちは生まれながらにして罪深い性質をもっていると言うのです。キリスト者でなくとも素晴らしい考えと行動を伴った人はいます。それでも永遠のいのちを持っているわけではなく、神の呪いの対象であることに変わりはないのです。しかし、救われた方がすぐみこころの通りに歩めるわけではありません。みこころの通りに歩むためには聖霊に満たされる必要があるのです。

2018年7月22日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『塩の柱』(創世記19:15~29)
 アブラハムは何度も何度も神に食い下がり、50人から始まって10人正しい人がその町に見出されたらさばきを思い直すとの約束を取り付けます。ロトの家族だけでも10人位は必ずいるはずとの確信はあったと思いますが思惑ははずれました。「そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。『立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。』しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。」神の警告を無視した結果ソドムとゴモラの運命は最悪なものとなりました。二人の御使いはロト夫婦と二人の娘を助けるため町から逃れさせようとし、守るべき忠告を与えます。その内容は「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」(19:17節)
 彼らはツォアル目指してひたすら歩を進めますが、突然ロトの妻が振り返り、その瞬間塩の柱になってしまいます。きっとソドムに残してきたものに未練を感じたのでしょう。この出来事は私たちにとっても他人事ではありません。そもそも私たちは裸でこの世に生まれてきたわけです。しかも死ぬ時何一つ携えて出ることもできません。私たちはこの地上が永住の地だと勘違いしてはならいのです。「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」(Ⅰペテロ2:11節)また、「信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル11:13節)。

2018年7月15日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『破れ口に立つ』(創世記18:20~33)
 ソドムとゴモラの罪は神が見過ごしできない状態にまで達し、事実かどうかを見極めるために三人の御使いが降ってきます。その内一人はイエスさまと思われます。二人の御使いはアブラハムを離れてソドムの町へ向かっています。18:22~23節「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。アブラハムは近づいて申し上げた。『あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。』・・」、
 アブラハムにとってソドムとゴモラが滅ぼされないためにいのちをかけた戦いが始まります。ソドムに甥のロト家族がいることも脳裏にあったでしょう。彼はまず、「ソドムに五十人の正しい人がいても神の計画は変わらないのですか?」と迫ります。それに対して神の答えは、「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」というものです。アブラハムは幾度も食い下がり「では、十人いたら?」と図々しいと思えるほどに神に迫ります。そしてついに「滅ぼすまい。その十人のために。」との神の約束を取り付けたのです。アブラハムの頭にはある意味安心感があったでしょう。しかし、後日アブラハムは悲惨な現実を目の当たりにします。わずか十人の正しい人がいなかった悲惨な現実を目の当たりにします。このような信仰の行為はモーセにも見られます。出エジプト32:31~32節です。また、パウロもそうです。ローマ書9:3節に彼の信仰がにじみでています。極めつけは十字架上のイエスさまの叫びです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34節)

2018年7月01日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『行いを伴う信仰』(創世記12:1~9節)
 いよいよアブラムの登場です。舞台はウルの地とあるので現在のイラク地方と考えられます。まず、アブラム一族は父テラも一緒にハランまで来そこに長らく滞在し、父テラはハランで死んだとあります。そしてアブラムが75歳になったとき神のことばがアブラムに下ります。「その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。・・」(創12:1)アブラムはこの時点で創造主なる神の声を聴くようになっています。偶像崇拝に満ちていた地でアブラムはどのように創造主なる神を信じるようになったかは聖書は詳しく記していません。
 いずれにしてもアブラムはこの時点ですでに唯一絶対なる神に対する明確は信仰を持っています。当時は神に示された地がどういう所か全く予備知識などありません。ただ神の導きだけをたよりに旅立っています。ここにも卓越したアブラムの信仰の一端を伺い知ることができます。ヘブル書の著者はこのことを次のように記しています。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」(ヘブル11:8)これは神との絶対的な信頼関係がなければできるものではありません。ヤコブ書2:23~24節「そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」私たちの信仰もかくありたいものです。

2018年6月10日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『掛けられたおおい』(Ⅱコリント4:1~7節)
 割礼ということばが聖書の中に登場するのは創世記17章10節です。そして同13節「あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。」それ以後、選民イスラエルとしてのしるしと誇りは割礼に象徴されると言っても過言ではありません。割礼を受けていない者はイスラエル人として認められなかったのです。しかし、旧約時代のイスラエルの人たちは割礼の真の意味を理解していなかったと思われます。
 パウロがこの割礼の意味を啓示されたとき、愕然としたことでしょう。ローマ2:28~29節「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」
 私たちもまた例外ではなく、生まれながらにして心にはおおいが掛かっているというのです。その心のおおいを取り除くことを象徴的に表したものが割礼という儀式です。この世の神(サタン)は人々におおいをかけ霊的盲目状態にしイエス・キリストが神であることを信じないよう惑わしているのです。霊的盲目であるかないかは、イエス・キリストが誰であるか知っているかそうでないかでわかります。主が語られたことばが真理であると確信し、それに従って行動している人はおおいが取り除かれているのです。私たちは大胆に確信をもって「主こそキリスト」と宣言しましょう。

2018年6月03日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『キリストの香り』(Ⅱコリント2:14~3:6節)
 マタイ5章16節に次のようなみことばがあります。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」このみことばは曲解するととんでもない悪影響をもたらします。見せる信仰を演じてしまう危険性があることを十分気注意しなけなければなりません。「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」(Ⅱコリント3:6)このみことばにあるように私たちは古い契約と新しい契約の違いを明確に理解していなければなりません。パウロはこの違いを身をもって体験したのです。石の板に書かれた律法をいのちがけで守ろうとした努力の人です。律法は命がけで守ろうとすればするほど救いから遠ざかることを彼は知らなかったのです。律法に欠陥があるということではありません。律法は永遠にして完全で正しいものです。
 では正しいはずの律法がどうして人間に死をもたらすのでしょうか?それは、人間の義が神の義に対して不完全なものだからです。完璧にみえる人間の素晴らしい業も神の目には全く汚れていることに気付いていないのです。Ⅱコリント3:3節「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」この中に「心の板に書く」とありますが、信じる私たち一人一人の心の中に聖霊さま御自身が入って来られ全く新しい人に造り変えられると言う意味です。そのような人は内側からキリストのかおりが放つようになります。

2018年5月20日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》     『異言より預言の賜物を』(Ⅰコリント14:1~19節)
 どういう訳か教会では預言とか異言について公に語ることが少なくなったように感じます。むしろ触れてはいけない事柄のような扱いになっているとさえ思われてなりません。悪霊追い出しについても聖霊のバプテスマについてもそうです。このような流れはみこころではありません。なぜなら聖書がそのよう言ってないからです。そのようなことを積極的に証しする人たちを異端であるかのように扱いさえするのです。このようなことはキリスト教界にとって決して良い傾向とは言えません。
 日本のキリスト教会が低迷している原因の一つにこの聖霊さまの働きに対する未熟な考えがあると言わざるを得ません。
 しかし、聖霊さまの働きを積極的かつ熱心に求める方々の中にも問題がないわけではありません。これは一つの例ですが、そのような教会では異言を語ることが聖霊に満たされ成熟したクリスチャンであるかのように見なす傾向があり、そのため異言の集会を積極的に実施し、信者になった方々は一日も早く異言を語れるようにとそのような集会に熱心に出席します。
 確かに聖書には聖霊に満たされた人々が異言を語りだしたと記されていますが、異言をかたれるようになれば霊的クリスチャンだとは言ってないのです。異言を語れるようになった人は語れない人を見下げるようになることさえ起こります。語れない人はそのことを聞かれることが怖いのです。語れない自分は一人前でないのだと自分を責め、まわりからそのように見られることに対する劣等感に悩みます。このような状態はもは本来の教会の姿とは言えないのです。十分警戒する必要があります。

2018年5月13日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》     『愛によって働く信仰』(Ⅰコリント13:1~10節)
 Ⅰコリント13章は愛について知る上でとても重要な箇所です。どんなに大きな奇跡を行っても、末期の病人を数多くいやしても、それが愛に基づいていないなら何の意味もないというのです。さらにパウロは「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Ⅰコリント13:3節)と衝撃的なことばを続けます。私たちは愛があるからこそ自分の持ち物を貧しい人々に施しができるのではないかと考えます。また、愛がなければ自分の体を焼かれるために差し出しはしないだろうと思いがちです。しかし、世の中には愛がなくてもそのようなことができることを知る必要があります。三島由紀夫の割腹自殺は愛から出たことなのか考える必要があります。太平洋戦争で帰りの燃料を積まず飛び立った特攻隊員は愛国心はあったと思いますが、聖書の言う愛が動機だったとは思えません。中東で起こる自爆テロも同じです。だからこそ私たちはここで愛について真剣に考える必要があると思っています。
 ガラテヤ書5:6節に「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」聖書の言う愛は私たちの想像を超えたものです。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13節)また、Ⅱヨハネの手紙6節「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、・・」主が私たちに願っていることは、このアガペーの愛は私たちが生まれてこのかた誰も持ち得ていないということです。これは上から聖霊さまによって与えられるものだと知る必要があります。

2018年4月15日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》     『あなたこそ真の教会』(Ⅰコリント3:10~17節)
 教会の土台はイエス・キリストです。ある時主は弟子たちにご自分のことをどんな者と考えているのか尋ねたとき、ペテロが次のように告白しています。「シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは、生ける神の御子キリストです。』・・・」(マタイ16:15)主はこの告白をたいへん喜び、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)初めて「教会」ということばがここに出てきます。牧師が教会を立てるのではありません。主ははっきりと言われたのは、「わたしが、この岩の上にわたしの教会を建てるのです。」確かにペテロは「岩」の意味もありますが、ペテロに上に教会を建てるという意味ではありません。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」との信仰告白の上に教会が建つのです。
 問題は、この告白をする者が激変し、まったく新しい人格に変えられることを理解していないのです。多くのキリスト者がこの告白をしてバプテスマを受けはします。しかし、試練に会ったり、世の惑わしに翻弄され神のみこころに従い通すことができない事です。イエス・キリストという土台を据えたにも拘わらず、コリントの教会はその上に木や草やわらで建てようとしたことに対してパウロは、「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。」(Ⅰコリント15:12)このような教えはその最たるものです。真の弟子とはキリスト告白が明確で、行いとことばに矛盾がないのです。これがキリストの弟子です。そのような神の器が2~3人集まれば、そこに教会は建つのです。

2018年4月08日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》     『あえて愚かな者を・・』(Ⅰコリント1:18~31節)
 「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』・・」(Ⅰコリント1:18節)私たちは人よりも優れていなければ価値がないと思いがちですが、聖書はそう言ってないのです。このみことばにあるように神の前に強い者はなく、賢い者も誰一人としていないと言うのです。しかも、強い人を辱めるために敢えて弱い者を選ばれたのであり、知恵ある人を辱めるために愚かな者を選び、富んでいる者を辱めるために貧しい者を選ばれ、無に等しい者を神は選ばれたのです。だとすれば私たちは間違いなく、弱い者であり、愚かな者であり、取るに足りない者であったということになります。
 それなのにイエスさまを信じて救われているにも拘わらず、自分は弱くてダメな人間だと失望することは明らかに矛盾です。自分が弱く愚かで貧しく生きる価値さえない人間だと気付いたのならこれこそ何ものにも勝る財産というべきです。私たちの神はすべての人がこのことに一刻も早く気付いて欲しいと願っているのです。
 ただ単に自分の存在に失望するのでなく、神との出会いによってそのことを気付かされることが大事です。Ⅱコリント12:9節、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」まさにこれが真理です。自分の愚かさを神の前に素直に認めること、自分の弱さをそのまま神の前に認めることです。誇るものがあるとすれば「自分の弱さ」と「イエス・キリッストの十字架」だけで十分なのです。私たちは躍り上がって喜ぶべきなのです。

2018年4月01日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》     『ここにはおられません』(マルコ16:1~8節)
 主は苦い杯を飲み干して三日目によみがえられました。イエスさまは公生涯で三人の人をよみがえさせています。一人は会堂管理者ヤイロの一人娘(マルコ5:35~43)、もう一人はナインの寡婦の一人息子(ルカ7:12~15)、もう一人はマルタの兄姉ラザロ(ヨハネ11:1~45)です。この人たちはやがて死にました。しかし、イエスさまの復活はこれとは全く違うものです。槍で心臓を突き通され水と血が流れ出たと聖書は記しています。ですから、仮死状態などとは異なり完全に死んだ状態です。そのイエスさまが三日目によみがえられたのです。ヨハネ20:7~8節「イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。」とあるように、頭に巻かれた布切れはほどいた形跡はなく、丁度膨らませた風船に包帯を幾重にも巻いた後に外側から針で破裂させるようなものです。弟子たちがそれを見て主がよみがえられたことを確信します。
 旧約聖書には死を体験せず天にあげられた二人の人物がいます。ひとりはエノク(創世記5:24)、もう一人はエリヤ(Ⅱ列王記2:11)です。イエスさまの復活はこれとは全く異なり、イエスさまは完全に死んで墓に葬られましたが、三日目の朝には髪の毛一筋も残さずよみかえられました。その後、突然弟子たちの前に現れ焼いた魚を食べたり、生前と同じように彼らを教え、体に触ることさえできたにも拘わらず突如として弟子たちの目の前から姿を消し、40日目にはオリーブ山から弟子たちの見ている前で雲に乗って天に上げられました。神に義と認められた証拠です。

2018年3月11日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》     『必要なことは一つ』(マルコ14:3~9節)
 三百デナリもする高価な香油をイエスさまに注いだのはマルタの妹マリヤです。実はこの出来事の前に重要な伏線があるのです。それはルカ福音書10:38~42節です。その中で主は姉のマルタに語ったみことばがあります。「ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。』主は答えて言われた。『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』・・」主は現代に生きる私たち一人一人に対しても「ほんとに必要なことは一つだけ」と語るのです。これは私たちにとっても最も大事なことです。このことが分からなければ大事でもないもののために時間と労力を費やすことになります。しかも「この大事な一つのこと」を具体的に誰でも自分の日常生活に適応できるための最良のテキストとすることができます。
 ルカ10章では、イエスさまがこの3兄姉の所に来て何を語ったかは記されていません。しかし、マルコ14:8節からイエス自身が近々御自身が殺されることを彼らに語ったことは疑う余地がありません。弟子たちが初めて主の受難のことを語ったのがマタイ16:21節です。そのときペテロはマリヤと反対の行動を取っています。その結果主に「下がれ。サタン」と叱責されます。神を愛することは、神のみことばに従うことです。真にイエスさまを愛していたのは弟子たちよりマリヤであったことがわかります。

2018年2月04日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》       『悪魔、悪霊』(マルコ5:1~20節)
 キリスト者の中でも聖書を読んでいながら悪霊の存在を信じない方もおられますが、悪霊からすればこれほど都合の良いことはないわけです。東京駅のど真ん中に大きな看板で「ここにはスリはいません」と言うようなもので、スリにとってこれほど都合の良いことはありません。イザヤ14:12~17節「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。・・・」。「欽定訳聖書」は1611年に訳されましたが、その中で14:12節の「明けの明星」をルシファー(Lucifer)と訳したことは高く評価されて良いでしょう。最近のニューエイジ(世界的悪魔宗教)の最終目的はルシファー礼拝、サタン礼拝です。ニューエイジの本にはこのルシファーの名前が多く登場しますが、彼らはこのルシファーがサタンと同じ存在であることに気付いていません。ですからこの箇所は「明けの明星」と訳すことは賢明でないのです。
 このみことばから、サタンがもともと高貴な天使、御使いであったことがわかります。彼は自分の知恵と富みに陶酔し、傲慢になり神の座に座ろうと企てます。その瞬間に彼は落とされ神に敵対する存在へと変質したのです。彼に同調した御使いは全て落とされました。そのことがユダ書6節とⅡペテロ2:4節にも記されています。この悪魔・悪霊は全世界どこにも存在し、またどの時代にも存在し、文明と科学が発達したこの便利な現代にあっても例外ではないのです。

2018年1月14日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『彼らの信仰を見て』(マルコ2:1~12節)
 マタイ福音書13:54~58節を読みますとたいへん興味深いことが記されています。「それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、・・・こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。『預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。』そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった」。それまでどこへ行っても多くも癒しと奇跡が起こりましたが、イエスさまの郷里ナザレでは不思議なほど奇跡は起こらなかったのです。その原因はそこの人たちの不信仰だと主は断言されました。イエスさまに原因があったわけではありません。彼らの不信仰が原因だったのです。
 マルコ5章には、12年の間長血を患って死を待つばかりの婦人の癒しの奇跡が記されています。彼女は見事に神の癒しを受けました。「そこで、イエスは彼女にこう言われた。『娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。』・・」(5:34節)、ルカ7:50節にも、「しかし、イエスは女に言われた。『あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。』・・」同じようなみことばは他にも数多く見ることができます。神の救いや癒しを受け取るためには受け取る私たちの信仰が重要なカギを握るということです。けれども癒しを必要としている当人の信仰がどうしても必要というわけでもないようです。今朝のみことばを読んで気付くことは、中風を患っている人の信仰ではなく、彼を担架に乗せたまま屋根からつり降ろした四人の友人たちの信仰を見て「子よ。あなたの罪は赦されました。」(2:5節)そして彼は見事に神の癒しを受けたのです。

2017年9月10日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『勇士よ。さあ行け!』(士師記6:11~24節)
 神はアブラハムとの約束を忠実に守り、彼らは約束の地に定住するようになります。しかし、指導者がいなくなると瞬く間に自分たちの父祖の神に背を向け裏切り行為に走り、そのことが原因で雨が降らず飢饉を招いたり、周囲の国々からの略奪に悩まされたり悲惨な状況に陥ることになります。今朝の箇所も例外ではありません。「イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。そこで、主は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡した。こうして、ミデヤン人の勢力はイスラエルを押えたので、イスラエル人はミデヤン人を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を自分たちのものにした。イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。」(士6:1~3)
 苦労して育てた作物も収穫の時になるとすべて略奪されてしまう。しかもそれを阻止する手だてもなくただ呆然と眺めるしかないのです。今朝の主人公のヨアシュの子ギデオンもミデヤン人を恐れて酒ぶねの中で小麦を打っていたとありますから状況は深刻です。このような状況を解決しイスラエルをミデヤン人の手から救うために神が選ばれた器がギデオンです。しかし、彼の属する分断はマナセ族の中でも弱小で、しかも彼は年が若くどう見てもイスラエルをミデヤンから解放するリーダーには見えません。しかし、御使いは彼に「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。・・・あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(6:12~14)ミデヤン人を恐れて酒ぶねの中で小麦を打っている少年に神を「勇士よ」「わたしが、あなたを遣わすのではないか」これ以上の保証はありません

2017年9月03日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『あざなえる縄の如し』(士師記2:16~23節)
 士師記2:7節「民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って主がイスラエルに行なわれたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えた。」同2:19節「しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行ないや、頑迷な生き方を捨てなかった。」神はイスラエルの民が神との契約を守るなら、あらゆる敵の攻撃から彼らを守ると約束されたにも拘わらず、さばきつかさが死ぬと瞬く間に神に背を向け滅びの道へと進みます。
 それで神は約束の地に住んでいた先住民を追い出さなかったのです。その二つの理由の一つ目が「カナンでの戦いを少しも知らないすべてのイスラエルを試みるため・・」(士師記3:1) 二つ目の理由は「―これはただイスラエルの次の世代の者、これまで戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためである。」(士師記3:2)これらのみことばから教えられることは、サタン(悪魔)はこの世にいない方が良いとの安易な考えには警戒する必要があるのです。問題が解決し平和が続くとやがて大きな問題が起こることを歴史が証明しています。皮肉なことですが信仰が成長するのは試練を通してです。問題がなくなると信仰はやがて死んでしまったり、眠る場合が多いのです。神がサタンを滅ぼさないでいるのは私たちを訓練するため、私たちに信仰の戦いを教えるためです。イエスさまに対してさえサタンはみことばで誘惑しました。サタンは本来天使だと言われていますから、みことばを知り尽くしているの忘れてはいけません。私たちの力では太刀打ちできないのです。しかし私たちには聖霊さまがいます。

2017年8月27日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『傲慢は破滅に先立つ』(創世記11:1~9節)
 ノアの箱船が漂着した場所が聖書では「アララト山」だと記されています。丁度黒海とカスピ海に挟まれた地形でトルコとアルメニアの国境付近に位置しています。山頂は今でも氷河で覆われその岩棚に箱舟らしき物体が確認された話を聞いたことがあります。過去に調査を試みたチームもありますが、政治的、軍事的理由で調査は阻まれてきたようです。
 人類は再びこの地から増え広がります。彼らはシヌアルの地に平地を見つけそこに定住したと記されています。これは今のイラクと思われます。まだこの頃までは、一つの民、一つのことばであり、それぞれの思いも考えも大きな違いがなかったと思われます。彼らは建築材料としてれんがを使い、また、粘土の代わりにタール(アスファルト)使うようになり建築技術が飛躍的に進歩します。そのことがきっかけとなり彼らの心は急速に傲慢になり危険な方向に暴走し始めます。そして「さあ、われわれは団結して町を作り、天にまで届く塔を作って、名を挙げよう。こしてやれば何でもできる。神なんか恐ろしくない。」(現代訳11:4)われわれ人間はいつの時代でもこのような危険な心を持ち合わせていること肝に銘じておくべきです。
 神は彼らの傲慢が悲惨で破壊的な結果をもたらすことを危惧し、あることを実行に移します。創世記10:7節「さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」これにより、彼らの悪い陰謀はたちまち混乱し行き詰まります。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(創6:5)文明がどれほど発達しても人間の基本的な要素は変わりません。ですから神から離れる瞬間に傲慢の問題が生じます。

2017年8月20日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『生めよ。ふえよ。地に満ちよ』(創世記9:1~7節)
 創世記1:28節「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と人に命ぜられましたが、その後、人は瞬く間に堕落し神の裁きを受ける結果となりました。それがノアの大洪水の出来事です。その洪水を生き残ったのは、ノア夫婦と三人の息子夫婦で合計8名です。人類は神の憐れみによって再び増え始めます。その時もアダムに言われたと同じことばを語りかけましたが、注意して読むと微妙に違いに気づきます。創世記9:1節「それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」
 不思議なことに「地を従えよ。」、「地をはうすべての生き物を支配せよ。」このことばが創世記9章にはありません。実はアダムが罪を犯した時点でサタンに奪われてしまったようです。Ⅰヨハネの手紙5:19節「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」今この世を支配しているのはサタンだと言うのです。 しかし、失望することはありません。主は十字架の御業によって信じる者にこの支配権をも回復してして下さったのです。マタイ21:21節「もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、・・・たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」また、ルカ10:19節「わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」 これらのみことばは支配権がなければ無意味です。

2017年8月06日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『ノアの洪水』(創世記6:5~8節)
 「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった」(創世記6:5)また、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」(エレミヤ17:9)。すべての人は生まれつきこのような性質を持っています。悪を行いたくないと思っても結果的には後悔することをしてしまいます。それは私たちの中にそのような性質があるからです。これを聖書は「肉」と表現しています。ローマ書8:5~6節「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」すべての人の中にこの「肉」すなわち「罪深い性質」があります。この問題をどのように解決すべきかは重要な問題です。
 カインが弟アベルを殺したとき、神はアベルに次のように語っています。「あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創4:7)「治めるべきである」と言われても気づいたらもうすでに罪を犯しています。努力しても何の甲斐もなく無力感に襲われるのが常です。イエスさまが十字架に架かられた理由の一つがここりあります。罪を犯さずには生きることのできなかった私たちが罪を犯さないで生きることができるように、求める人々に聖霊をお与えになるのです。罪まみれの世界に生きる私たちが罪に悩まされないで生きるようにして下さったのです。ここにキリスト者の希望があります。聖霊に満たされるときこのことが現実のものとなるのです。

2017年7月30日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『皮の衣』(創世記3:20~24節)
 エデンの園において律法はただ一つしかありませんでした。それは園の中央にある「善悪の知識の木」、口語訳では「善悪を知る木」と訳されていますが、この木から取って食べてはならないということだけです。他に食べるものがなかったわけではないのにどうして彼らは食べたのか。また、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われたことはどういう意味なのか知らなければなりません。善悪を知るのですからむしろ良いことのように思う方も少なくありません。
 ローマ書8:13節に「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」とのみことばの意味するところを考える必要があります。私は善悪の知識の実自体に毒があったとかではなく、律法(善悪の知識の木を食べてはならないという神の命令)に背いたこと自体に問題があったと考えています。つまり、善悪の究極的な判断は被造物である人間には不可能であり、絶対にしてはならないことであり、これは神の主権を犯すことであることを肝に銘じなければならないのです。
 この神の戒め従っていれば、神のいのちがアダムとエバの中に常に注ぎ込まれ、神との交わりが彼らのいのちの源泉となっていたのでしょう。しかし、罪を犯して堕落した者にとって、エデンの園はもはや安息の場所ではなくなりました。神はいちじくの葉っぱで自分の恥を隠そうとしている彼らを憐れみ、皮の衣を着せて下さったのです。これは犠牲となった動物がいたということであり、究極的には神がイエスさまを殺しその衣を私たちは着せて下さったということです。

2017年7月16日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『霊的な死』(創世記2:4~17)           
 ヨハネ福音書5:25節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」このみことばはとても不可解です。イエスさまはご自分の話を熱心に聴き入っている人たちに対して話したことばです。私たちは「生きる」ということの本当の意味を改めて考える必要があります。同じような意味のことばがルカ福音書9:59~60節にもあります。「イエスは別の人に、こう言われた。『わたしについて来なさい。』しかしその人は言った。『まず行って、私の父を葬ることを許してください。』すると彼に言われた。『死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。』・・」つまり主は、神を信じず神との生きた霊的な交わりのない者に対して死人と見なしていることがわかります。
 マタイ福音書22:31~32節「それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」このみことばの意味するところはこうです。神は生きている者の神であって死人の神ではない。それゆえ人は必ず神の前に生きた者となれなければならないのです。では、どのようにすれば神の前に生きた者となれるのか?聖書が言うところはイエスさまを信じ聖霊さまを自分の中に迎え入れることです。土から造られたアダムも神の霊を吹き込まれた時生きた者となったとあるとおりです。生きているか死んでいるかは神の御霊がおられるかそうでないかによるのです。

2017年6月25日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『神の国』(ローマ14:17)           
 イエスさまがこの世に来られた目的は神の国実現であったと言っても過言ではありません。イエスさまの宣教第一声はマルコ1:15節「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」しかし、マタイ12:28節では「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」マルコでは「神の国は近づいている」と言い、マタイでは「もう、神の国はあなた方のところに来ている」と明言なさいました。また、マルコ4:11節「イエスは言われた。『あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。』・・」これらのみことばからイエスさまの宣教の中心が「神の国」であることがわかります。
 しかし、私たちはこの「神の国」をどれだけ意識して現実の信仰生活に適応しているでしょうか。公正な目で眺めて見るに甚だ疑問を持たざるを得ません。イエスさまは神の国ついて、多くのたとえをもって話されました。ですから、私たちはこれらのみことばからできるだけ正確に「神の国」とは何かを理解する努力をしなければならないのです。理解するだけでなく神の国実現のために何を成すべきかを教えられ実行に移す必要があるのです。ルカ17:21節「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」神の国は死んでから入るところでなくもう私たちの中に来ているのです。Ⅰコリント4:20節「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」また、ローマ14:17節「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」今朝ご一緒にこの「神の国」について学ぶことにします。

2017年6月18日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『舌を制御する』(ローマ14:1~12)           
 箴言18:21節に「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」これはとても含蓄のあることばです。現在でも「菜食主義者」は多くいますが、どんな理由があれそのような人たちを批判したりさばいてはならないと言っているのです。野菜しか食べない人も肉お互いさばき合うことを戒めているのです。どんな理由があるにせよ、主はさばくことを厳しく戒めます。
 マタイ12:36節には「人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。」これは脅しではなく真理であり真剣に受け止めるべきです。
 さばいてはならない大きな理由が三つあります。一つは、さばくことは神の特権であり神だけしかできないからです。ヤコブ書4:12節に「律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」とある通りです。
 さばいてはならない二つ目の理由は、さばきはすでに終わったからです。エペソ2:14~16節「キリストこそ私たちの平和であり、・・・隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。・・・敵意は十字架によって葬り去られました。」どんな事情であれさばくことはイエスさまの十字架の御業を否定することになるのです。
 さばいてはならない三つ目の理由は、さばきはサタンが人を滅ぼすために使う常套手段だからです。Ⅱコリント2:10節「もしあなたがたが人を赦すなら、・・・サタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。」